わたしたちについて

NPO法人東京コットンビレッジ代表冨澤拓也Tomizawa Takuya

わたしたちにとって身近なコットン素材。
わたしがコットンに興味を持ったきっかけは、国内自給率がほぼ0%であると知ったことからでした。

日本には崑崙人によりもたらされ広まったといわれる「和綿」があり、江戸時代には国内自給生産されていた歴史があります。その和綿にも銘柄があり、さまざまな特徴がありました。現在わたしたちが栽培しているのは、「会津」「真岡」「三河」「河内」「伯州」「佐賀」「茶棉」などの銘柄です。

商業的生産としても栽培が盛んであった畿内ではより多くの銘柄が残されていますが、関東以北などでも栽培されていことが残っており、各藩によりそれぞれに特徴があったことが窺がえます。これらは近代産業化の流れによって衰退していき、現在国内で使われているコットンのほとんどは海外から輸入されています。また、世界で栽培されているコットンの99%には多くの農薬が使われているという現状もあります。東京コットンビレッジでは、失われてしまった和綿の背景からみえてくる社会の課題に気づき、文化を伝えること、また種を守ること、そして栽培において失われている環境について考えることなどを大切に活動をしつづけています。

木棉の伝来

799年(平安時代)小舟に乗った崑崙コンロン人が三河(愛知県)に漂流し、その際に木綿の種を持っていたというのが日本に初めて木綿が伝えられた最も古い記述とされています。*崑崙コンロン人ではなく天竺テンジク人(インド人)という説もある。しかしなぜ小舟で漂流したのか、なぜ木綿の種を持っていたのか、本来の目的は布教だったのでは等諸説あります。木綿は紀伊・淡路・四国・九州諸国に植えられたのが栽培の始まりとされており、その植生から比較的温暖な地帯を中心に栽培されました。しかし栽培はうまくいかずまもなく衰退、絶滅したとの記述が残っています。隣国朝鮮では14世紀に元(中国)から綿種子を輸入したのが綿作の始まりとされ、まもなく綿布等は日本に輸出されました。日本にとって綿布はそれまで着用してきた麻・からむし・葛・桑などに比べ比較にならないほど暖かく丈夫で肌触りが良かったので貴重品・珍品として扱われました。当時の日本は綿布の引き換えに金銀銅などを差し出すほど木綿の魅力に強く惹きつけられていきました。そして日本の買付けが余りに激しいため朝鮮側が抑制し始めると中国の木綿を買い付けようとしました。しかし明帝国(中国)の海禁政策により密紡績以外に木綿の輸入は困難でした。こうして外国木綿依存の道が破綻するようになる応仁の乱前後の頃から日本国内でも木綿が作られ始めました。安定した栽培の始まりは16世紀とされ外国から多量の種子を輸入し、大和・河内・山城・摂津・和泉(五畿内)などでの栽培が始まりました。以後九州諸国や東海・関東諸国等寒冷地を除き全国的に広がっていったとされています。

自給から産業へ

木綿の栽培が盛んになると同時に木綿織り等の発展もめざましく、各地に競ってすばらしい織りが工夫され、高度な技術や製品は外国の模倣なども含め驚異的な発展をしました。また、羽後(秋田県)など綿作の不適な寒冷地でも暖地から問屋を経て木綿を購入したとされ、初歩的な日本経済の始まりも見られました。そうして木綿は江戸時代中頃には国民の着物として最も普及しました。綿花は、隠岐(島根)、佐渡(新潟)、陸前(宮城・岩手)、陸奥(青森・岩手)、羽後(秋田)等寒冷地以外の全国で栽培され、農家の副業として広がり、家庭での使用を超えて、江戸や大阪で売られたりもしました。江戸時代後期には自給の枠を超え、木綿は商品として扱われ発展し、その動きは各地に広まりました。その結果、木綿の生み出す利潤を巡っては激しい争いがくりひろげられました。幕府は買い占める特権を強化するなどして利潤を吸い上げようとしましたが、生産者農民はこうした抑圧に対し激しく抵抗、幕府の独占に反対し各地との自由取引などを要求、空前規模の「国訴」を行い、幕府の譲歩を勝ち取りました。こうして農民及び各諸藩は需要地との直接取引を行い、藩経済の自立の道を追求し始めました。この動きは長州藩などではいっそう明確となり、やがて藩の幕府からの自立という政治の動きにまで展開し、それが維新への道を切り開くことにも繋がっていくことになったとされます。こうして木綿は「庶民衣料」というもっとも日常的な存在に関わらず、江戸時代の経済、さらには政治において、とても重要な役割を果たしてきました。しかし、それも明治維新を経て、結果決定的な大打撃を受けることになります。

日本綿業の飛躍のカギ、輸出

日本の綿製品は、朝鮮、満州、中国本土、さらには東南アジア、アフリカへと伸びて行きました。日本の綿製品輸出が伸びた理由としては、イギリス、アメリカ、ロシア、フランスなどの先進国に比べて低賃金なので価格が安いということと、陸海軍の銃剣と軍艦によって日本帝国の勢力範囲が拡大され、日本綿糸布の独占市場が確立したためとされます。綿糸布の輸出が拡大したことは日本の資本主義全体にとって大きな意義がありました。民間企業にとって侵略による市場拡大は紡績業界の希望となり、日本政府にとって輸出拡大による外貨獲得は軍需工業の希望でした。これが第二次世界大戦までの日本資本主義発展のコースであり軍需工業と綿業は日本帝国主義を支える二つの柱だったのです。しかし第二次世界大戦の敗北によって日本帝国主義は没落します。

西洋の流れ産業革命

木綿は元来インドが原産で西洋でも18世紀までは輸入品だったので値段も麻や毛よりも高かったとされます。木綿の原料が分からず木の枝に羊の子がなっている画が残っているほどでした。木綿をなんとか安く豊かに供給しようと産業革命は起こりました。紡績機、機械紡績機、蒸気機関はまず機械紡績に用いられ、汽船はアメリカの綿花をイギリスに運ぶため、機関車はリヴァプール港に陸揚げされた綿花をマンチェスターに送るために発明されました。木綿は近代文明の礎を築いたといえます。ヨーロッパの綿花はインドから供給されていましたが、それだけでは足りなかったのでアメリカ南部の豊かな土地で「白い黄金」=「綿花」の開発が叫ばれ、それはコットンラッシュと呼ばれました。アメリカ北部でも紡績等は起こり盛んになるのですが、南部で採れた綿花の大半はヨーロッパに向けて輸出されました。ヨーロッパに輸出される綿花輸送船は積み荷なしで帰港しなければならなかったのですが、それでも北部の生産物を買うよりもはるかに利益にた。南北アメリカの対立はこうして決定的になり南北戦争勃発の引き金になりました。結果、人道主義を盾にした北軍が勝利し奴隷は解放されました。

経済発展とは

現在、お店で販売されているコットン製品の原料のほとんどには大量の農薬が使用されており、農作物の中で農薬の使用量が最も多いのがコットンと言われています。近年はオーガニックコットンという言葉も聞くことが増えてきましたがシェアとしてはまだ少ないのが現状です。理由としては大量生産、効率性を重視した経済発展のためです。経済発展が引き起こす様々な問題は時代が変われども常に存在します。今は土壌、環境を犠牲にして経済発展をしています。農薬や枯葉剤の影響はすぐには表れませんので病気や不具合が出ても本当の理由はわからないのでしょう。そして人間社会だけでなく自然環境の変化に伴い生態系への影響もあるでしょう。しかしそれでも「衣食住」の全ては「土」から成ります。人間を含む全ての生き物は土が無いと生きていけません。だから土を汚してはいけないのです。とてもシンプルなのです。世界人口の食料確保を理由とした遺伝子技術の発達、オーガニックという耳障り良い言葉の乱用、やりたい放題な現状です、全ては経済発展のために。そう、いつか来た道なのです。コットンは世界中の産地によって種まきや収穫の時期も違い品種によって繊維の長さ、強さ、撚りの程度、色の具合など様々異なった特徴を持っています。日本古来のコットン「和綿」にも日本の気候にあった特徴があり、そこに生まれ暮らす人達に似ていると言われています。そんな和綿の産業自給率は0%です。経済発展のために栽培を放棄された在来種です。大量の情報が交錯する現代生活、心静かにゆっくりと、糸を紡ぐことから見えてくる大切なこともあるのではないでしょうか。これまでの歴史のように社会は常に変わるものです。じっくりと自身で考え判断し行動したいものです。

参考文献

「木綿以前の事/柳田国男」「新・木綿以前のこと/永原慶二」「紡績/横井雄一」

「論語と算盤/渋沢栄一」「綿と木綿の歴史/武部善人」「ワタの絵本/農山漁村文化協会」

組織概要

名称
NPO法人東京コットンビレッジ
目的
和棉(国産の無農薬コットン)の栽培および糸紡ぎワークショップなどの普及啓蒙に関する事業を行い、将来的に環境保全と伝統技術の継承に寄与することで地域社会に広く貢献
事業内容
・無農薬コットンの栽培指導事業
・糸紡ぎ、染色、機織りの指導事業
・ワークショップ・講演・イベント・啓発活動事業
・コットンに関連する物販、出版物販売事業
・音楽、デザイン、芸術文化 と協業した 活動・ イベント事業
・その他目的の達成に必要な事業
役員

代表理事 /冨澤 拓也

副理事 / 小林 玲子

理事 / 多良 勲

理事 / 佐々木 理恵

監事 /高野 雅也

定款
定款
郵便物送付先
NPO法人東京コットンビレッジ
〒154-0022 東京都世田谷区梅丘2-8-13 1F
03-5799-6995 ※営業時間12:00-19:00